この模写図が測量司の業務を引き継いだ内務省地理局(設置当初は地理寮)に伝わり、地理局内の組織として誕生した東京気象台、中央気象台を経て気象庁に受け継がれてきたものと考えられる。
「沿海輿地全図」の名の通り、国防上の事業として行われたため、本図は海岸線の描写が中心であり、内陸部に関しては空白も少なくない。
蝦夷地測量の翌年の元年()には、東海岸、東北西海岸、・沿岸の測量を完了。
伊能図見本(中図)• 以後、伊能らは文化13年()の第10次測量まで(第9次測量のみ伊能は不参加)日本全土を歩測した。
当図には印記はないが「第95 信濃 上野」図幅には当時の地理局員大川(通久)と思われる名を含む付箋が残っており、地理局旧蔵資料であることがほぼ確実である。
大図作成のための測量は、方位と距離を野帳に記録しながら沿岸や街道を進行する方法で行われました。
しかし、幕府提出図は、明治6年の皇居炎上の際に焼失し、東京帝国大学に提出・保管されていた伊能家控図 ひかえず についても、大正12年の関東大震災で焼失しました。
全214枚を連ねて全国をカバーするが、同じく「中図」(1:216,000)は8枚、「小図」(1:432,000)は3枚で全国図を成す。
当図には印記はないが「第95 信濃 上野」図幅には当時の地理局員大川(通久)と思われる名を含む付箋が残っており、地理局旧蔵資料であることがほぼ確実である。
画像 [ ]• 『大日本沿海輿地全図』は「大図」「中図」「小図」で1セットを構成する。
忠敬は日本全国の測量を1800~16年(寛政12~文化13)に行い、測量が一段落進むごとに、3万6000分の1の縮尺で製図し、これをまとめて長さ6尺、幅3尺ほどの地図(大図という)とした。
雑記 [ ]• 寛政 12 1800 年の蝦夷地測量に始り,,,,まで 17年かけて全国を実測,そのを文政4 21 年,大図 縮尺3万 6000分の1 214枚,中図 縮尺 21万 6000分の1 8枚,小図 縮尺 43万 2000分の1 3枚に作成,に提出した。
出身でだった( - )は隠居後に学問を本格的に開始し、にて幕府の( - )に師事し、測量・天体観測などについて修めていた。
実際、気象庁には地理局の印記をもつ資料の一部が伝えられている。