直義が甥の直冬を養子に迎えた後、1347年に誕生した直義の実子。
結局尊氏は天皇の命に背き、軍を率いて鎌倉に向かい、乱を鎮圧しました。
そこで正成は従軍させていた幼い息子の正行(まさつら)に故郷に帰るよう諭します。
まあ、この時期、足利直義は、怪異に取り囲まれていた・・・あるいは、怪異を呼びやすい人物だったということでしょうか? つまりは、やはり相当の権力者であったということの裏返しなんでしょうね。
これらのケースは腹違いの兄弟なので、さもありなんとも思う。
そのため、反幕府 北条氏 の御家人や守護、さらには天皇家も幕府に対抗しようとしていました。
高兄弟は直義の罷免を求め、直義がして政務から退く事を条件に和睦する。
建武政権下で尊氏と護良親王の対立は、実は東国御家人と畿内周辺武士の対立でした。
直義としては師直さえいなければ、尊氏との二頭政治を再開できると思ったのでしょうか。
なお、足利一門の桃井直常は、鎌倉幕府倒幕でその武勇が知られた武将でしたが、奈良の戦いで北畠顕家を撃破した戦功を師直が無視したのを怒って、直義側についたと言われています。
すると、高師直と高師泰の兄弟は足利尊氏に足利直義の罷免を求めます。
直義は、執権政治の復活を目指しましたが、政治思想は儒教の影響を大きく受けていたとされています。
2021-07-15 18:00:00• 足利直義とは? 足利直義(説) 足利直義は 足利貞氏(あしかが さだうじ)の三男として生まれ、1歳違いで母も同じの尊氏とはもともと仲もよかったようです。
- 当主および大祝。