ある日、外国人居留地となった横浜を訪れます。
実際に明治維新を遂行したのが政府であるなら、諭吉はそのシナリオを書いたともいえます。
儒教的秩序を基礎とする国家観の不合理を論証し、弊害を述べて身分制度に基づく封建社会を否定する。
前編に続けて、学究の徒の心構えを説く。
『学問のすゝめ之評』 福澤は、上記の批判に対して、慶應義塾 五九樓仙萬(ごくろうせんばん)というペンネームで「学問のすすめ之評」という弁明の論文を記して投稿し、『』明治7年11月5日号付録に掲載された。
福沢諭吉は何をした? ・ 洋書の翻訳をした 福沢諭吉が生きた幕末は鎖国のため、外国語ができる人が多くいませんでした。
人間関係とは、誰かに頼ることではなく誰かに頼られるような人になる、それが一番うまくいく秘訣なのかもしれませんね。
実はこの言葉、福沢諭吉が作ったものではなく、もともとはアメリカ独立宣言から引用されていると言われています。
十七編 人望論 栄誉と人望は 努めて求めるべきである。
『』福澤諭吉、1880年7月、2版。
それまでの福沢は西洋の文物制度学術の客観的紹介者としての態度を持し、福沢のことばを仮りて言えば、「言はば文明一節づつの切り売り」をしていたのであるが、明治政府の施政方針も改進々歩の方向に定まり、新日本の進路の見きわめもついたので、従来の態度を一擲して、すこぶる大胆な態度で、旧思想の批判、新文明の鼓吹に乗り出した、その第一声ともいうべきものが、この「学問のすすめ」十七編のパンフレット・キャムペーンであった。
自立心から正しい自己主張をする 福沢は、人間が目指すべきものとして 「独立の気概」があると説きます。
『』(巻之一)の「」• 西洋文明の進歩は既存の価値観に対する疑問から発生したことを説き、西洋文明そのものすら盲信することを愚として戒める。
前者は明治六年四月に片仮名交りに改刻のときまだ二編以下の続刊の考えがきまっていなかったことを示し、後者は同じ「明治六年四月真片仮名再刻」とは記してあるが、実際は二編の出た明治六年十一月頃になって、二編を出すにつき、これを初編と名づける必要が起り、新たに版を起したものと考えられる。