しかし、ハイデガーは根源的臆見をしている「あるもの」も存在するものであり、その「あるもの」が存在を解釈する実存である現存在の「存在」について語られない限り、「存在する」ことについて何も語られていないことを指摘しています。
例えばあなたは今自分の部屋にいます。
・デカルトの「我思う、ゆえに我あり」は近代哲学と宗教思想との決別を象徴する言葉となりましたが、デカルト自身は熱烈なキリスト教徒でした。
考える自我=これぞ真理(真偽の判定をくだしてまちがいない真実、事実であるということ) 自我は脳みそのことではないので、脳と自我は別々の物と考えました。
言い換えると、「私が思うから、私が存在する」、と言ったものではないということです。
・・・一度決心したことは断固かつ毅然として行うこと。
もし、前段で「われ思う」と言って、後段で「われあり」というと、「われ」に関しては論点先取の誤謬だということになります。
デカルトにとっては「現実」こそ「存在」だったのです。
〉の訳。
例えば、哲学者はデカルトの命題を、「 1 全て考えるものは存在する、 2 私は今考えている、 3 ゆえに私は存在する」というと異ならないと指摘する。
ここで、絶対確実なものとは、表象で直観されたものから実在に関する判断が直接に導かれる事柄のことである。
なぜなら例え色や形を言葉で説明しても、その色や形の定義自体が同じであるということを証明することができないからです。
自分は本当に存在するのか。
これを真理の「対応理論」と言っていました。