奥州藤原氏四代。
秀衡が跡は田野になりて、金鶏山のみ形を残す。
「五月雨の 降り残してや 光堂」 (さみだれの ふりのこしてや ひかりどう) 光堂とは金色堂のことです。
高い地位や、豊かな財産などで、豊かに栄えること。
この時に、有名な弁慶の立ち往生というエピソードも生まれました。
山道も多かったであろう道を、初老の男性が歩いたのだとするとよほど元気だったのでしょう。
泰衡 やすひら ら が 旧跡 きゅうせき は、 衣 ころも が 関 せき を 隔 へだ てて、南部口をさし固め、 夷 えぞ を防ぐと 見え たり。
この平泉は平安時代に奥州藤原氏が繁栄を築いた地として知られています。
秀衡の館の跡は田野となり、その名残すら無い。
一方、清原家衡は清原氏の所有する広大な土地を 手に入れ、奥州に広大な領土を所有する支配者となりました 清衡自身は何ら戦での働きはなく、 ほとんどの戦功は源義家が立てたものですが…。
ふもとにある平泉文化遺産センターの裏から のぼっていけます。
ご興味ある方はリンク先の記事をご覧ください。
以後、四代にわたり奥州に一大勢力を築く、 奥州藤原氏のはじまりです。
それから500年が経ち、芭蕉がこの高館があったとされる場所にのぼって下をながめると、ただどこまでも夏草が生い茂っていました。