なお、今津の宿で披露された歌詞にはその後補足が加えられており 、現在見られる6番までの全歌詞は翌1918年(大正7年)夏までに完成した。
安田寛 『すると彼らは新しい歌を歌った 日韓唱歌の源流』 音楽之友社、1999年9月、• 三角錫子はこの唱歌の替え歌として『七里ヶ浜の哀歌』を作詞したのである。
吉田についての資料は吉田文庫(新潟市秋葉区)に所蔵されている。
大正9年から昭和2年までは、四高漕艇部の勃興期として対外戦を琵琶湖瀬田川コースで行い活躍した。
レコードの発売 [ ] の初版は(昭和8年)にから発売された「第三高等学校自由寮生徒」の歌唱によるもの(品番:4580B)である。
歌詞は全6番からなり、は8分の6拍子である。
読売新聞文化部 『唱歌・童謡ものがたり』 岩波書店、1999年8月、• 同年4月6日にでボート練習中に突風のため転覆し水死()した(現・)漕艇部の部員11人を悼んで作られたとされている。
歌詞 [ ] 真白き富士の嶺、緑の江の島 仰ぎ見るも、今は涙 歸らぬ十二の雄々しきみたまに 捧げまつる、胸と心 ボートは沈みぬ、千尋(ちひろ)の海原(うなばら) 風も浪も小(ち)さき腕(かいな)に 力も尽き果て、呼ぶ名は父母 恨みは深し、七里ヶ浜辺 み雪は咽びぬ、風さえ騒ぎて 月も星も、影を潜め みたまよ何処に迷いておわすか 歸れ早く、母の胸に みそらにかがやく、朝日のみ光 暗(やみ)に沈む、親の心 黄金(こがね)も宝も、何にし集めん 神よ早く、我も召せよ。
1999 (平成11) 年には、 している。
友人は不在で、周航から戻った小口が回収したため、小口の実家に残された。
こうした住民の熱意は、拡張工事を行う滋賀県をも動かし、県は拡張工事の完了後、会員が育てた四高桜の接ぎ木を現在とほぼ同じ場所に植える計画を示した。
しかし、午後6時になっても戻らなかったため、翌朝より大がかりな捜索が行われた。