「三顧の礼」は、あくまでも目上の者が目下の者に対して働きかけることを表す言葉です。
皇帝が法王の廃位を宣言すると、皇帝は法王より教会からの破門を宣告されてしまいました。
そこで、劉備が会いに行くことになったのです。
正史ではそこまではいかなくとも、劉備はそれなりに誠意と熱意を見せたのではないかと思います。
「三国志」の小説などでは、劉備が諸葛亮の昼寝を待ち続けるシーンが描かれることがあるため、2つの話に似たイメージを持ち「三顧の礼」を「屈辱を持って相手を受け入れる」意味として用いる場合があるが、この用法は誤りだ。
このことを劉表の配下から伝えられた劉備は、愛馬に乗ると、慌てて逃げ出します。
2度も足を運んだので、充分に礼儀を尽くしたと考えたからです。
優秀な人材が引き抜かれたときや、スポーツ界において著名な監督が厚遇された際の報道などでも使われます。
例文をいくつか紹介するので参考にしてほしい。
三国時代の蜀(しょく)の皇帝である劉備(りゅうび)が、無官の諸葛亮(しょかつりょう)の能力を見込んで、参謀長に招くためにみずから出向きますが、一度目と二度目は会えず、三度目にやっと会えて懇願し、口説き落としたという故事が「諸葛亮伝」に書かれています。
会食などで上席をすすめられたとき、どうすればよいか。
この部分の漢文と現代語訳を以下に紹介する。
この頃、劉備が40代であったことに対して、諸葛亮は20代でした。
「三微七辟」は「真心や礼儀を尽くして優れた人材を招くこと」や「目上の人がある人物を信頼して手厚く迎えること」という意味です。
この先のことを考えて途方に暮れていた劉備は、とある田舎で、学者である司馬徽に出会います。
そこで劉備は諸葛亮のもとを三度訪れ、ようやく会うことができた…これが、非常にシンプルな記述ではありますが、正史の三国志の記述です。