長岡藩は新政府軍と戦っていた部隊を吉田・巻方面に派遣して()までに全て鎮圧した。
安田鉚蔵を安井鉚蔵、槙内蔵介を植内蔵介と誤記または誤植をして出版された書籍があり、これより孫引きをしたと推察される書籍・文献がかなり存在し、この誤りを踏襲している。
実際、新政府軍は城下の墓所に建てられた継之助の仮墓から遺骨を持ち出そうとしたが、中身が砂石であったため継之助の生存を疑い恐怖したという。
しかしこれらは史実として検証できる資料が残っていないため信憑性が低く、後世の作り話と思われる(外部リンク参照)。
これによって長岡藩の兵力が減少したのみならず、人夫動員も困難となり継之助の長岡城奪還計画は大幅に遅れて、結果的に新政府軍に有利に働くことになる。
この立て直しにより家老首座連綿の稲垣平助家は2,000石から500石となったため、継之助はとても恨まれたそうです。
現在は派大寶山建福寺管理の下「河井継之助一時埋葬地」として同所に墓碑(「故長岡藩総督河井継之助君埋骨遺跡」の碑)が残されている。
この固陋な有様に憤慨した継之助は藩主に対し門閥弾劾の建言書を提出する。
久敬舎では講義はほとんど受けず、書庫で巡りあった『李忠定公集』を読みつつ、それを写本することに日々を費やした。
峠を越えて会津藩領に入り、にて休息をとる。
江戸〜備中松山〜長崎〜備中松山における道中の出来事を記録したもので、両親への道中報告のためのメモ的なものである。
2020年には、河井継之助を主人公にした作家・司馬遼太郎の傑作歴史小説『峠』を原作とする映画『峠 最後のサムライ』(主演・役所広司)が上映されます。