自分ではどうしようもない理由で差別を受け、環境の悪い地域で生活することを余儀なくされたえた・ひにん 穢多・非人 の人々。
これは儒教の概念で、奈良時代に日本に入ってきたと言われています。
名称 [ ] 「穢多」ということばの文献上の初出はにおいてであり、『』((永仁4年))などに見られる。
しかし、現代においても、当時のえた・ひにん 穢多・非人 が行なっていた仕事は立派な職業の一つとして存在しており、人間が生活するためには無くてはならない役割であったことも理解されてきています。
そこで、階級の位が高い人々は死体の処理など忌み嫌われる職務内容を、農民でも職人でもない身分の低いえた・ひにん 穢多・非人)たちに任せることを決めました。
、、、校注 『七十一番職人歌合・新撰狂歌集・古今夷曲集』、新 日本古典文学大系 61、(1993年3月)、p. 穢多は居住地が地図に表示されないなどの差別を受けたとされているが、豊かな穢多村(枝村)では田畑を農民(農奴)同様に耕しも納めている例があるなど一概には語れない。
どんな生活をしていた? 明治時代以降に形成された「士農工商」も、実際の身分制である「武士」「百姓」「町人」も、江戸時代に暮らしたすべての人々を指し示しているわけではありません。
そして、えたひにんの人々は、自身たちの居住をするところでも制約があり、自身たちの地域である沼地や山奥に潜み生活することしかできず、自身の家の墓も墓石は土の下に隠さなければならなかったとされています。
ただ、言葉の意味が変わることで、表立ってその歴史に触れる人々が減ってきていることも事実です。
士農工商から除外されたえた・ひにんとは。
実際には、支配層となる「武士」以外は、農村に住む「百姓」と、主に城下町に暮らす「町人」という形で居住地によって区分されていました。
また、(建治元年)にに献上されたとされる『』には「河原の辺に住して牛馬を食する人をゑたとなつく、如何」「ゑたは餌取也。